埋物の庭

埋物の庭

街中にあるつい見落とされがちで埋もれてしまっているもの(=埋物、まいぶつ)を紹介します。

【文フリ東京37直前緊急特別告知】1周しなければ琵琶湖じゃないじゃ~ん!! ビワイチSP①

 

記事タイトルが長すぎる

○○じゃなければ××じゃないじゃ~ん!!

この言葉を目にしてゲッ……と思ったのは当時ひねくれ者*1だった若き島鉄

 

ですが、誤解を恐れず言うと、祭の前にテンションを上げるにはこういう”バカ”みたいなスローガンを掲げるのも悪くないですね。

 

島鉄は文化祭当日に、図書館の奥の方でモスバーガーを食べて終わった悲しい思い出があります。あんまり斜に構えすぎてもいけませんね(翌年は一念発起してコントに挑戦してやや滑ったのでテンションを上げればいいモノでもありません)。

www.fujitv.co.jp19年も前だったんだね、楽しくなければテレビじゃない*2じゃ~ん!! って。

 

そんなことはどうでもいいじゃ~ん!!

 

……はい。というわけで

サークルはにわ会として2023年11/11(土)の文学フリマ東京37(東京流通センター会場)に出店します!

そしてエッセイ集、同人誌『埋物の庭 Vol.5 いまここにいること』を販売します!! なんやかんや5年目となる文フリ参加です。

bunfree.net

ななんと文学フリマは入場料無料、わたしたちのようなエッセイ・紀行文を出す団体・個人から小説や文芸批評までありとあらゆる文学(と自らが信じるもの)が集結しているのです。

今行くと東京ビッグサイトじゃなかったんだヨ……昔はサ、と古参ぶれるのでおススメします。

 

えーと、何のはなしでしたっけ?

とにかく2023年11/11は東京流通センターに来てください!!

私たちのブースは第一展示場のG-20にあります!!

サークル名は、はにわ会 です!

 

……よし。

 

my-butsu.hatenablog.com

↑去年もこんな記事を書いていたなあ……。

 

ビワイチをご存じか?

島鉄は今回の『埋物の庭』で琵琶湖一周……いわゆるビワイチに挑戦した体験記を載せました。

www.biwako1.jp

ビワイチとゆーと、自転車で2日半くらい?

否! 断じて否!!

 

歩いて5日半*3かけて琵琶湖を一周しました。

まあ、その内容については『埋物の庭 Vol.5 いま、ここにいること』を読めばいいじゃ~ん(しつこい)!!

 

島鉄が5日半かけて廻った琵琶湖のダイジェスト版をお届けします。

しますが……!

 

小ネタばかりなので、琵琶湖一周の雰囲気を味わいたい人は全周200㎞以上の琵琶湖畔を歩いてみてください。それしか方法はないのです。それか『埋物の庭 Vol.5』を買ってください。

琵琶湖は、南部は京都市、北部は福井の敦賀市に近い南北に長い湖です。
地図情報提供:© OpenStreetMap contributors

この広大な琵琶湖の東の端っこ、名古屋から在来線で1時間と少しで着く米原を起点として、グルーっと一周しました。

ちなみに5日半中2日くらい雨に見舞われました。しかも最初と最後、わざとかってくらいに。米原は豪雪地帯だから、なのでしょうか?

 

湖東編~琵琶湖の東側~

滋賀県は琵琶湖を基準として東西南北それぞれ「湖東」、「湖西」、「湖南」、「湖北」といった地域区分をしています。もっというと忍者や焼き物で有名な「甲賀信楽」とか県庁所在地、琵琶湖の東西に市域がある「大津」もありますが。

shigatoco.com湖を中心として地域が区分されているのは47都道府県の中でも滋賀県くらいなものではないでしょうか。

 

島鉄がまずスタート地点に選んだのは米原市! 

なにせここでびわッコ三姉妹*4に出会ったことがすべての始まりともいえますからね。

 

ちなみに前回の文フリ宣伝記事で米原の思い出とともにビワイチについて触れていました。

my-butsu.hatenablog.com

琵琶湖のちょうど真ん中らへん、かつ新幹線も一応停まる駅だからでしょうか?

ビワイチ(琵琶湖一周)をメチャクチャ推してます。自転車なら頑張って一周できそう。ちなみに琵琶湖の外周は241kmです。

えっ、241km?!

 

きつ……。むり……。

そんな苦行をする人たちのことは置いておいて(広島まで鈍行で向かう自分のことを棚に上げつつ)、パンをむしゃむしゃ食べて西へ。

こんなことを書いておいて数か月後にビワイチにチャレンジしているんだから、人間ってわからないもんですねえ。

 

天気が悪いのは島鉄にとってなれっこです

米原駅で降り、一夜明けてホテルの窓を開けると、ものすごく天気の悪い駅前風景が広がっていました。

何か悪いことでもしたのでしょうか。

悪行

やっぱり大事なビワイチ前に飲酒したのが良くなかったのかな。

悪行2

それとも15日文フリ京都7参加なのに、14日に無理やりビワイチ決行したからかな。

 

理由は分かりませんがとにかく雨が止みそうにないのだけはたしかでした。

雨天決行。ビワイチは雪と台風以外ならきっと大丈夫。

 

世の中は大学入学共通テストで大変なことになっていることをまったく知らないまま、努力する学生さんたちや雨のなか釣りに精をだす人たちを尻目に35㎞ひたすらに歩いてきました。

 

道中については同人誌『埋物の庭』を買ってね、ということで結論から申し上げますと、いろいろあって不肖島鉄は……。

わたSHIGA輝くこと能わずでした。チクショー!

いろいろあって輝けませんでした

ここで力尽きたので近江八幡の人はよかったら行ってみて下さい。

人って休憩・マッサージなしで雨のなか濡れた靴で長時間歩くと限界を迎えるんだ、という気づきがありました。

 

 

さて、ここで限界を迎えた、と書いた通り夜通し歩いて琵琶湖を一周することは理論上可能ですが、厳しいです。

1日35~40㎞くらいを何回かに分けてチャレンジすることを強くお勧めします。

 

2回目のチャレンジは名古屋から始まりました。

名古屋名物ナナちゃん。薄明りのなか税を宣伝してました

税を宣伝するデカイもの、実はナナちゃんだけでなく他にも存在します。

ビワイチ中に駅前広場で邂逅することとなるのですが、それについては同人誌『埋物の庭』を買ってください(しつこい)。

 

近鉄特急で京都へ向かいます。志摩スペイン村のドンキーがお出迎え

近鉄株主優待券を使うためだけに名古屋⇒京都ルートをとって滋賀へ向かいます。こんなことしている(ビワイチ含め)のは車内に島鉄ひとりなのではないか、と思わされますね。

 

……滋賀の話をしましょう。

カンテレ(フジテレビ系列)が住宅展示場やっていてビビりました。手広い。

わりと関西ではポピュラーなんでしょーか。本家フジテレビはとゆーと、お台場移転前の河田町再開発が最近になって進んできた印象*5です。

ktv-housing.comめちゃ×2だだっ広い道を歩いて畑・住宅・都市を通過していきます。

すっっごく赤い牛もいました。これ食欲はそそりませんが、ドライバーへの視認性グンバツですね。歩行者の島鉄は何あれ?! と若干ヒいてしまいましたが。

 

前回と違い天気にも恵まれ、足も特に痛めることなく、無事に琵琶湖の南部にある湖東と湖西を結ぶ橋を渡ります。

夕日の沈む海もいいけど、夕焼けに照らされた湖もいいなあ

うーん、数十㎞歩いてから見る琵琶湖と夕日は美しい。最高です。

 

いかがですか? みなさま。

今年は厳しくとも、来年からビワイチしてみたくなってきませんか?

思い返すとビワイチをしてからもう半年以上経ってしまいました。

 

ビワツー(今度は逆周り)は一体いつになるやら。

 

湖西についてはまた記事を書きます。

 

Bye-Bye.

 

島鉄

*1:まるで今は素直みたいに書きましたが、今もねじけてます多分

*2:元のスローガン「楽しくなければテレビじゃない」は1981年初出で2023年秋の改編テーマでも触れられています

*3:ちょこちょこ日を分けたので6日連続ではないです

*4:そういうキャラがいます、漫画もあります、リンク参照です

*5:フジテレビが主導で何かやっているわけではありませんが

引っ越しました

大阪に住んで1年。淀川区に引っ越しました。

 

淀川の河川敷

 

新大阪とか十三がある区です。

淀川の河川敷を歩くと広くて気持ちがよいです。

 

憧れていたロフトつきの物件にしてみましたが、夏は暑すぎてほとんど立ち入りませんでした。

 

新居

 

11月に文学フリマで同人誌を出そうと原稿を書いています。

今回は兵庫県を旅した記事です。

 

ブログもたまに更新します。それではまた。

はにわ通信 第28号「『ゾンビ特急"地獄"行き』はゾンビ映画でチェンソーマンで寄生獣」

怪作。

『ゾンビ特急"地獄"行き』ってタイトル発音したくなる。

 

 

ゾンビ映画・パニック映画として観始めたら重力を振り切って予想外の方向に飛んでいった。

 

科学者のサクストン教授が満州で猿人の死体を見つけて鉄道で北京に運んできたところから物語が始まる。
猿人の死体?といちいち訝しんではいけない。この映画はツッコミどころがたくさんあるが、勢いに身を任せると楽しめる。

 

北京(上海という表記もあったが)からシベリア鉄道はモスクワを目指す。猿人は貨物鉄道に載せられる。
貨物を詰めるどさくさに紛れて盗人がケースを開けようとするが、なぜか目を白くして死んでしまう。不穏である。

 

列車が走り出す。
死体だったはずの猿人はなぜか復活して、ケースから手を出して自分で鍵を開ける。長い眠りから目覚めて最初にすることが器用すぎる。

 

貨物係がケースの中身を調べようとしていると、ケースから出てきた猿人とエンカウントする。貨物係は猿人の赤い目を見て、目を白くして死ぬ。
猿人の目を見ると人は死ぬらしい。猿人、パワー系かと思っていたらサイコ系だった。

 

猿人は列車内を移動して次々と人の目を白くして死なせていく。目を見るだけで殺せるのは強すぎる。

 

乗車している医者のウェルズ先生やサクストン教授が、死体を解剖して原因を探る。
すると脳みその皺がきれいになくなっているではないか。これは記憶がいっさいなくなってしまったことを意味する(←?)。
目から採取した液体を顕微鏡で覗くと、その目が最後に見たものが浮かびあがる(←?)。これらの証拠を元に犯人探しが始まる。

 

教授や警官などが総出で猿人をどうにか葬る。これで一件落着か?猿人の目を調べると、なんと恐竜や、果ては宇宙から見た地球の姿が見える。これはいったい?

 

列車内でまた人が死に始める。猿人は死んだと思われたが、警官に乗り移っていたのだ。なんでもできるな猿人。

 

列車には神父も乗っていたのだが、意味ありげなことをつぶやいていたのち、猿人を崇拝しだす。謎の闇落ちである。
神父は警官に乗り移った猿人の後を追い行動を共にし始める。

 

列車は異様に寂れた駅に停車する。この駅の終わりっぷりには笑ってしまう。駅舎には列車からの電報を読んでいるコサックみたいな人たちがいる。彼らのなかになぜか猿人の正体について知っているような男もいる。なぜなんだ。酒を飲む仕草や強そうな気配が、チェンソーマンの岸辺っぽい。デビルハンターなのかもしれない。

 

https://chainsawman.dog/assets/img/chara/chara_9_stand.png

チェンソーマン公式サイトより

 

岸辺とコサックたちが「農民ども」と言いながら列車に乗り込んでくる。
警官(猿人)と神父がなにやら怪しい。岸辺が迫ると、戦闘が始まる。猿人はコサックたちの目を次々に白くしていく。
岸辺も奮闘するがとうとうやられてしまう。強キャラっぽいのが勝てないと展開がいよいよ読めない。

 

列車内はパニックになる。
ウェルズ先生とサクストン教授は猿人の正体を地球外生命体と推理する。正解だ。物分りがよすぎる。

 

猿人もといエイリアンは、別の銀河系から200万年前から地球に降り立った。生物の脳を乗っ取って生きることができ、赤い目で生物を見るとその記憶と能力を奪うことができるのだ。だから脳みそから皺がなくなっていたわけ。序盤でケースの鍵を開けることができたのは、盗人のスキルを手に入れたからだったと伏線が回収される。寄生獣みたいだ。

 

猿人は神父に乗り移る。神父(猿人とばれていない)が教授に「地球を無重力にするにはどうしたらよいか」と尋ねるシーンは予想外の会話すぎておもしろかった。

 

教授たちは、猿人のいる車両を切り離すことにする。
モスクワの鉄道事務所(デビルハンターの本部かもしれない)に連絡が入り、軌道のポイントを変えることが速やかに決まる。
ポイントが変わったら列車は崖にまっすぐ進むことになる。列車落下用のポイントがあるの笑ってしまう。

 

猿人はこれまで目を白くした人たちに司令のようなのを送り、ゾンビとして復活される。ラストでゾンビ映画になるのすごいな。忘れてた。

しかし最終的に列車の切り離しは成功し、猿人は車両とともに爆発して燃えて物語は終焉を迎える。

 

展開の読めなさと謎の勢いがおもしろかった。あと主要人物は教授たち含めておっさんばかりなのもよかった。
ツッコミどころ満載なので人と話しながら観るとより楽しめるんじゃないかな。

ハンセン病資料館と清瀬の団地

随分と前に行った国立ハンセン病資料館の「私の手は曲っている」展と、清瀬市で出会った団地について、猛暑のなかまとめてみました。

www3.nhk.or.jp

この企画展のポスターに載せられている詩、「生きるということ」(いのちの芽収蔵 志樹逸馬 1953)のそれでも生きなくてはいけない、という強いメッセージに惹かれて西武鉄道に揺られて東京と埼玉の境目である清瀬市まで行きました。

 

国立ハンセン病資料館までの最寄り駅は秋津駅

ここから歩いて20分ほどで国立ハンセン病資料館へ着きます。陽射しを遮るものがない住宅街を歩くので、記事を書いている現在(2023.8月)、フラリと訪れるのはちょっと厳しいかもしれません。

川を渡り、団地の横を抜け……到着!

 

ここ国立ハンセン病資料館は公園が隣接しており、散策できるようになっています。ただし入口に注意書きがありました。

資料館隣にある多磨全生園は「高齢者の住む医療施設」なのでコロナウイルス感染症対策のため園内へは立ち入り自粛するよう云々。

「国立療養所」の文字を見ると、ここがかつてハンセン病患者を隔離していた場所だと想起させますね。

 

資料館入口にある母娘遍路像は、ハンセン病と診断され療養所に隔離されれば、家族と憩う時間が二度と訪れないため入院前に遍路旅へ出かける、という風習について触れています。

私はこの資料館に入るまで、"ハンセン病患者の"母の哀しみを表しているな……と思っていたのですが、集落で"身内がハンセン病患者である"残された家族(=娘)の苦しみも同時に表現されているのです。

 

このハンセン病患者とその家族への補償についてはパネル展示で詳しく知ることができました。

ハンセン病に関する情報ページ |厚生労働省

社会の偏見に晒された病は、病にかかっていない人たちにも偏見をもたらす……。

そう考えてみると、新型コロナウイルス禍でも医療従事者の家族に対する偏見がありました。

 

人間はそうそう変わらないな、と思いつつ「私の手は曲っている」展の開催されている2階へと向かいます。

 

中でも以下の2つの詩が特に印象的でした。

あれから幾度 秋がいった

妹の泣き顔

故里の空

駅のホーム 

も みんな変わらない 私の心象の中では

妹は今でも 私の病を知らない

いつかはわかるだろう

兄は いくら待っても帰れないという事を

 

やがて

永遠に消えない悲しみの灯が

お前の心にも点るだろう。

 

妹よ 淋しくはないか

妹よ 悲しくはないか

 

私は今でも背戸の柿の木に登って

遠い空を見ている

日暮れは雲と一しょに筑波嶺を越えたりする

夜更にお前の耳もとでささやく。 

 

「妹の手紙を見て」 國本 昭夫

もう二度と故郷へは帰れない兄と、そのことをまだ知らず手紙を遣る妹。

 

あの宗教家は 神を信じなさい と 云った、が。

ある政治家は もっと皆様の幸福のために 努力しましょう と 云った、が。

ある慈善家は、あなた方は こんな風光明媚な所に 住んでいて、倖ですよ と 云った、が。

いつかの慰問団は、いつの日か 機会が ありましたら、またきましょう。 と 云った、が。

ある医師は きっと いつかは なおる時代もきましょう と 云った、が。

あの男は微笑まなかった。

つれづれの 友となりても 慰めよ ゆくことかたき 我れにかわりて

あの御下賜の歌にも

 

「微笑まなかった男」 森 春樹

色々な立場の人が、ハンセン病患者に向けてそれぞれ違った言葉を投げかけます。

それは救いの言葉、憐れみの言葉でしたが、隔離されている男は微笑まなかった。

「外から同情する人」と「内に閉じ込められた人」の大きな溝が可視化されます。

そんなにも憐れみ深い貴方は、なぜ私を閉じ込めるのですか、なぜ許せるのですか。

そう問われている気がします。

 

ちなみに展示はこんな感じでした。

回遊しながら気に入った詩は再び見に行く方式(?)です。

ちょうどハンセン病政策や『いのちの芽』収蔵の詩と作者についての解説をされている方がいたのでラッキーでした。

 

またハンセン病患者と交流した大江満雄氏についてもコーナーが設けられていました。

何を隠そう大江氏とハンセン病患者との交流が始まったのは、本展示の主役である詩集『いのちの芽』の刊行がきっかけです。

 

中でも私が驚いたのはハンセン病患者と車座になって話す、という写真です。

戦後も隔離施設を存置していた当時、このような交流は考えられないことでしたが、それを行ったのです。

 

ハンセン病は日本で癩病(らいびょう)と呼ばれていましたが、大江氏は癩病患者→癩者→来者と表現しています。

来者とは来るべき者であり、作詩と思索を続けるハンセン病患者の姿勢が生きることについて非ハンセン病患者にも考えさせるきっかけになる、という意味が込められているのではないかと思いました。

来者の群像 大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち|オンラインショップ|スロウな本屋

 

 

常設展示では、隔離施設(例えばここハンセン病資料館はかつて多磨全生園と呼ばれていました)の内実やハンセン病と社会の関わりについての歴史を知れます。

 

近代以前の宗教による救済と偏見*1、そして近代化し科学的思考が広まってからも偏見はなくなることがなく、現代に至る……。

www.huffingtonpost.jp

 

隔離施設に入るとともに、使っていた円を園内通貨に替えるさまは漫画『賭博黙示録カイジ』のペリカを思わせます。

ハンセン病患者が不自由な体ながら施設内で様々な労務にあたり、建築物も含めて多くの物を作っていたことも驚きました。

まるでガス室のないナチス・ドイツ強制収容所*2、或いは第二次世界大戦下のアメリカにおける日系人収容所を思わせます。

 

湯治が効くということからハンセン病患者たちに園内で温泉を掘らせる、なんてブラックジョークのような話を知り、思わず苦笑いしてしまいました。

 

そんな過酷な環境下で詩を作り、結婚をする、祭りを楽しむ……。

文化的な営みを通じて「生きる」ハンセン病患者たちの姿に、創作することの意味――ただ食べて働いて寝るだけではなく、文化的な活動によって人間として生きている実感が湧く――を考えさせられました。

 

さて島鉄は真面目なので(←!?)国立ハンセン病資料館を出る際にアンケートを記入しました。すると幻の詩集『いのちの芽』をもらえるではありませんか!

……もう終わった展示なので、いま情報共有してもさほど意味はないと思いますが、まさか詩集をいただけると思っていなかったので非常に驚きました。

いのちの芽 : 詩集 (国立ハンセン病資料館): 2023|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

非売品のようです。これで気に入った詩をいつでも読みかえせます。ありがたいことです。

 

さらにネパールのハンセン病患者施設の方が作ったポストカードももらえました。

……こんなにもらっていいのかな?

 

ハンセン病についての歴史を知り、病と人・社会の関係性を学べる施設。アクセスは少しだけ不便なところですが、一度はハンセン病資料館を訪れるとよいかもしれません。

 

陽が傾きかけた清瀬の街をあとにします。

 

駅へ向かう途中にコミュニティバス―—きよバス――のバス停を発見。

ベトレヘム。


f:id:haniwakai:20230806001510j:image

えっ?!なんで??

 

驚くなかれ、ここは社会福祉施設「ベトレヘムの園病院」の名前からとられたバス停なのです。

www.betohp.net

にしても直球なバス停の名前ですね。山万ユーカリが丘線の「女子大駅」以来の驚きです。

そしてとことこ歩くと行きに見つけた素敵な(?)団地が。

水道塔でっかいな~、と思いながら写真を撮っていると住民と思しきオジサマから声をかけられました。

水道塔撮るのマズかったかな……?なんて不安に感じましたが、杞憂でした。

どうやらオジサマは丁度買い物に行く途中で「この人ナンデ写真なんか撮ってんだろ?」と思って話しかけたみたいです。

 

水道塔が好きで撮ったと話したところ、色々と生い立ちから団地住まいの良さまで聞くことができました。

親切にありがとうございます!
住んでいない人の部屋が鳩の住まいになり困っていること(団地あるある)、水道塔の色は大体水色なこと(都営団地あるある)、都内にも関わらず家賃が激安なこと……。

まさかの団地トークを楽しめました。

 

清瀬の住ポテンシャル高いかもしれないなぁ。

オジサマから「水道塔好きならもっとでっかいのが駅の向こうにあるよ~」と教えてもらい、ハンセン病について理解を深める日だけでなく、まさかの団地の水道塔の理解も深められる日になったのでした。

 

ここが清瀬野塩団地です。もしかしたらオジサマの言ってた団地とは違うかもしれませんが……。

 

この団地は川のすぐ近く*3、駅よりも低い位置にあります。


f:id:haniwakai:20230806001609j:image

そのため駅を抜けて歩いて夕日と住宅街を眺めているときに「水道塔がある!」というふうに発見しました。



こちらの水道塔はとっくり型。阿佐ヶ谷住宅などで見られる少し古いタイプの水道塔です。こころなしか団地の建物も古いよーな……。

いわゆるゲタバキ団地で、一階部分に店舗が入っていますが、どこもくたびれており(←失礼)、裏手に回ってみるとなかなか歴史を感じさせますね。

getabaki.jimdo.com

 


f:id:haniwakai:20230806001627j:image

さらに歩くとカラーコーンが大量にある空間が広がっていました。たぶん駐車場でしょう。うっすらと浮かぶ月が綺麗。

 

老若男女が集う運動広場にも人はいません。看板が錆び錆びで何書いてるのか分かりにくいですね。

 

あ、でも子供は自転車に乗ってこの運動広場以外のところでフツーに遊んでいました。

まあ、団地のちょっとしたスペースで遊ぶと駐車場もあったりして怒られますし、別の場所で遊びますよね(これは私の経験による憶測でしかないですが)。

 

古めかしい昔ながらのいい団地だなー、なんて思って川沿いまで歩いてみると、ピッカピカの建物が現れてビックリしました。

なるほど、絶賛建て替え中なんですね!

あまりのギャップにくらくらします。

だってこんなコンクリ製の生き物がいる団地なんですよ?!

そこから少し歩いて行くと綺麗な建物があるなんて思わないじゃないですか。

 

川向こうに見える夕日がきれいな新旧色んな建物の見られる清瀬野塩団地。

なかなか住むにはいいんじゃないですかね。駅までも徒歩15分以内、自転車……は行きは登り坂ですが帰りはラクです(とーぜん)!!

 

駅までの帰り道で清瀬市所沢市の境目を歩くことができました。


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右と左どちらも似たようなアパートなのに、ごみ回収のルールが違う!

と一人でコーフンしてました。ゴミ出しの日を間違えたとき隣のアパートのゴミ置き場に出す……って人いるんじゃないかな?そんなヒジョーシキな人いない??

 

……ハンセン病資料館でのしみじみとした気分から、思い切り島鉄の趣味(?)の話に飛躍して困惑されている方もいるかもしれませんが、許してください。

 

あのとき水道塔を撮っていなければ、オジサマに会わなければ、こんなことにはなっていなかったでしょう。

そう考えると、いかなる理由があれど社会から隔離されてよいことなどない、そう断言できますね*4

 

自由に生きられることの尊さを噛みしめて、西武電車に揺られて帰路に着きました。

 

 

*1:これは洋の東西を問わないようです

*2:ハンセン病罹患者隔離施設は絶滅を目的にしたものではありませんが、断種など優生学的思想は見受けられます

*3:柳瀬川。所沢市との県の境目になっているようです

*4:強引にハンセン病資料館と清瀬の団地を結び付けた感

天王寺の謎の歩道橋

天王寺駅の東側のあびこ筋を歩いていると、こんなものが見えた。

 

 

歩道橋?にしては高さがある。

近づいてみる。

 

横のビルの6階と同じくらいの高さ

 

高架とつながってる!

登ってみよう。

 

階段の踊り場から。ハルカスをこの角度から見たのは初めてだ


眼下にコーナンが見える。ここまで高いと展望台のようだ

 

なにこれ…!?

道路の横に出た。

 

高速道路?

 

歩道が続いている。ここは入っていいところなのか?

 

 

隣のビルの屋上と同じ高さまで来てるし。

 

 

進んでいると、高架は線路を跨いでいた。

 

 

電車がカーブから入ってきて迫力がある。

奥には生駒山の頂上の灯りが見える。

写真を撮ったら電車の光条が『【推しの子】』の目の星っぽくておもしろい。まあ電車は人によっては完璧で究極なアイドルだしね?

 

https://youngjump.jp/oshinoko/assets/img/main/img_main01.jpg

ヤングジャンプ公式サイトより

 

 

この謎の道も終わりが近づいてきた。

急なカーブがある。

 

 

降り口だ。

 

 

意外にひっそりとした場所に出る。

 

 

鉄道の線路沿いに進んでいくと天王寺駅のホームを下から見上げる場所に出る。

 

 

四谷学院あたりから繁華街になってくる。

 

 

最終的に天王寺駅の北口につながっている。

 

 

というわけで、謎の歩道橋を登ると、天王寺駅の北口まで来ることができた。

地図で場所を確認してみよう。

 

 

場所は駅の東側。

地図で見ると、あの道路は大阪府道28号だった。

高架橋には名前がついており、「天王寺バイパス」というそう。

 

 

JR西日本の3路線(大阪環状線阪和線関西本線大和路線))と、近鉄南大阪線を跨いでいる跨線橋なのだった。鉄道好きにはうれしいスポットなのでは。徒歩で登れるのがうれしい。

 

天王寺バイパスの謎の歩道橋の図

阿倍野区を歩く

休日、昼過ぎ。とくに予定はない。

暇なのでどこかへ行こう。
ということで谷町線に向かう。

 

駅で路線図を眺める。

天王寺の隣の阿倍野駅は降りたことがないな。
行ってみよう。

 

前から気になっていたのだが、天王寺阿倍野の違いがよくわからない。
あべのハルカス天王寺駅に直結しているけど「あべの」を名乗っているし、同じくあべのキューズモールも「あべの」だ。
天王寺=阿倍野なのか?大阪歴がまだ短い自分としては謎だった。

 

今回改めて地図を見てみると、どういうことがわかった。
天王寺駅天王寺区(北側)と阿倍野区(南側)にまたがっている。

ハルカスもキューズモールも天王寺駅につながってるけど、阿倍野区にあるから「あべの」なのだろう。

 

区境はマピオンが見やすいと思っている。

 

余談だが、ぼくはハルカスのあべのべあが好きだ。

空色の体、穏やかなまなざし。

かわいいのでLINEスタンプを常用している。

 

あべのべあと筆者

 

 

あべのキューズモールのアベーノアベーノもいい(←調べていま名前を知った)。

いつもポスターでくすりと笑わせてくれる。

 

 

 

話を戻して、阿倍野駅に到着。
地下から地上に上がると、阪堺電車の線路が通っている。

 

ぼーっと堺まで行くのもありかもと思いながら歩いていると、路地からきれいな入道雲が見える。いいね。夏だ。

 

路地と入道雲

 

雲にひかれて路地に入る。

気温はかなり高く日差しが強い。この調子だと歩けて30分ほどだろう。

夏の街歩きはどう暑さと折り合いをつけるかが大事になってくる。

 

住宅街が続く。
小学校のフェンスに貼られた小学生作のポスターを眺める。

「きれいな世界をつくろう!」とか標語が書いてある。どれもストレートなメッセージだ。絵は、マンガ好きらしいかわいい系、とにかく勢い系など多様な流派があって鑑賞しがいがある。

 

あびこ筋に着く。
ここらで一旦休憩したい。涼める場所を探す。
カフェがあればと思っていたが、ブルーシールアイスクリームとファミリーマートの二択のようだ。
ブルーシールはけっこうレアなので気持ちが傾いたが、まだアイスクリームゲージが溜まっていなかったのでファミマに。

 

冷たい飲み物など回復アイテムを買って外へ。
谷町線の文の里駅がある。
あびこ筋に対して阪神高速道路の高架が斜めに通っていて(なぜ?)、日陰になっている。ありがたい。その下を歩こう。

 

古い木造の長屋

 

高架は阪神高速14号松原線。
斜めに通っている謎を家に帰って調べてみたところ、昔は南海平野線という路面電車が通っていたかららしい。高速道路は川沿いという印象があったけど、こういうケースもあるのか。

 

 

南海平野線は1980年に廃止されて、同区間に開通したいまの大阪メトロ谷町線に役割を引き継いだとのこと。なるほど。

 

高架の日陰は助かる

 

大きな道路に出る。松虫通り。

あれ、池がある。ここ見覚えがあるぞ。

桃ケ池公園だ。

 

桃ヶ池公園


実は以前来たことがある。そのときは谷町線田辺駅から自転車で来た。

ここは地図で上から見ると、池のなかに住宅街が広がっているおもしろいところなのだ。

 

 

 

池のなかには股ケ池明神(ももがいけみょうじん)という神社もある。

 

 

 

神社のなかの人作成の、壁新聞ならぬ板新聞(というか板ブログ?)がおもしろい。DIY感がある。

 

神社の由来も、海からの漂着物を祀ったことからと書いてあって興味深い。ほかの方のブログ記事を紹介しておく。

 

 

桃ヶ池公園を出て、御堂筋線昭和町駅の方へ歩く。
途中見えた昭和町二丁目商店街もよさそうだったが、今回は交差点にあったカフェに入る。
また商店街巡りで来たいな。

 

 

Cafe & coworking space CLIP

 

アイスカフェラテを飲んでくつろぐ。
引っ越しの計画を立てたりしてると日が暮れてきた。

 

近くのまぜそばのお店で夕食をとる。

 

汁なしまぜ麺専門店 麺屋 花桃

 

汁なし担々麺は辛くて麺がもちもちで美味しかった。

 

食後、あびこ筋を北に歩いているとハルカスが見えた。きれいだ。

ハルカスは屋上のヘリポートからの眺めが最高なので、年1くらいで登りたいな。

 

なぜか日本家屋のなかに自転車店

 

天王寺の歩道橋を歩く」へ続く?

東京にも村はある~山の学校編~

6月終わる時点でGWに行ったところの記事を書いている、夏休みの宿題は最終日にやる(間に合ってない)主義の島鉄です。

 

この前記事にした檜原村で、一番行きたかった(行ってよかった)スポットを紹介していませんでした。

それは……。

急斜面に上にある山の小さな分校

数馬分校です!

 

まず数馬がどこなのか、檜原村の地理に詳しくないヒト*1に説明いたします。

この地形図、たくさんの文(学校)の地図記号が書かれていて哀愁を誘います。

この懐かしさを覚える縄跳びの上に飾られている地形図の左下らへんです。

え?伝わらないですか??

 

ザックリ言うと、山を越えるとお隣は山梨県……檜原村のなかでも奥座敷と言ってよい地域が数馬地区なのです。赤く囲ってみました。それにしても、地形図から檜原村がいかに山がちか分かりますね。

なかなかすごいところに来てしまったぞ。

ちなみに数馬地区は温泉と兜造り*2の伝統建築家屋で有名です。

www.ichiro-ichie.com

 

ちなみに、島鉄檜原村を知ったキッカケは小学校の授業でまさにこの「檜原村」について社会科の授業で教わり、「数馬分校」を調べたことに始まります。

まさか、武蔵五日市駅からバスに揺られて1時間、1,000円以上も*3運賃を払う秘境に学校があったなんて……。

 

あ、申し遅れました、ここ数馬分校は1999(平成11)年3月に閉校して今は資料館としてその姿を今に伝えています。

下見板建築っぽい白亜の校舎がこちら。

風情がありますね。バスケットゴールがボロボロなのはご愛敬。

この小さな山の分校は、急坂の上に切り開かれたわずかばかりの平地に建っています。

坂の下にはお寺があり、昔は寺院の伽藍を小学校としていたとか。

校庭のすみっこにひっそりとたたずむ遊具がいいですねえ。

建っている石碑は新校舎設立記念のもの。

現存する白亜の木造2階建て校舎は新しいもの(1959 昭和34年落成)だったのですね。

 

島鉄が訪れたときは小雨が降り、誰もこの分校を訪ねてきていないようでした。

管理人らしきおじいさん*4に声をかけて入ってよいものか尋ねると、各教室や先ほど紹介した檜原村の地形図などについてこころよく解説してくれました。

ここから入ります。入ってすぐに手洗い場があるのは小学校らしいですね

小学生時代以来となる(?)手洗い場で腰をかがめながら手を洗い廊下を歩きます。

2階へと続く階段を通り過ぎてすぐ、図書室らしき部屋がありました。

昔懐かしい偉人伝に、小学生時代に読んでいた児童文学が並ぶ姿に思わず「おお~」と声が漏れてしまいます。

他の教室にも本棚がいくつか置いてあり、本は分校時代のものだけではなく、各地の小学校や先生等から寄贈してもらったものもあるそうです。

なかなかノスタルジックな気分に浸れます。

 

あと、これは世代や地域にもよると思いますが懐かしのストーブが置いてありました。冬の厳しい雪国や山間部の学校には各教室にストーブが一つは設置されていたとか。

後ろの数馬分校の標高が686mなのにも驚きました。島鉄が長野県松本時代に住んでいたアパートよりも標高が高い(……スカイツリーより高いの方が伝わりますか?)!!

 

隣の教室……いやここは教室というより職員室みたいでした。トロフィーや教育関係の本が多数置かれています。

学校と言えばトロフィーのいっぱい入ったケースですよね(?)

タヌキなどの剥製が飾られているのは山村の学校らしさが感じられていいですね。

本棚に『複式学級』、『へき地の教育方法』などの本が置いてあるのも分校らしさを感じます。

meisei-hekiken.jimdofree.com

島鉄の祖母は小学校教師でしたが、山間部の学校では複式学級での授業をおこなっていたと聞いたことがあります。意外と上級生が下級生の面倒をみたり、児童数も少ないので目が行き届いてよかった(個人の感想です)そうな。

 

都心の学校でも複数担任制や少数学級などの方法が模索されていますが、へき地教育の最前線にいる教員の力が必要とされる時代が来ているのかもしれません。

小学校における35人学級の実現/約40年ぶりの学級編制の標準の一律引下げ

(↑とはいえ少数でも35人を教えるのって大変そうですが……)

 

閑話休題

音楽室の足踏みオルガンやタンバリン、児童用の歌集*5もなかなかノスタルジックでいい感じ。

「置いてあるものは自由に触って使っていいですよ」と管理人のおじいさんから許可を得たのでおそるおそる足踏みオルガンを弾いたりしてました。

いちばん奥の教室の黒板は閉校当時のものをそのまま保存しているそうです。

通っていない小学校なのに、なぜだか胸がしめつけられるような寂しさを感じました。

卒業と違って閉校だもんなあ。

もっとも数馬分校は閉校後も残されているので、卒業生がかつての姿を偲ぶことができるのは幸せかもしれません。

 

来た道を引き返すと、お昼時にもかかわらず管理人さんが階段を上って2階の解説もしてくれました。

飾っている習字や、でっかいカマキリ、廊下突き当りの左奥にある青い小舟……これらはすべて数馬分校の児童たちが作ったものだそうです。

青い小舟は実際に川下りで使ったとか。学校が現存していればおそらく捨ててしまわれたであろうモノたちが、こうして残っているのは皮肉にも閉校したからでしょうか。

管理人さんによると、もともと数馬分校の児童数は少ないので学芸会などで作ったものは廊下や教室に飾り付けていたそうです。

 

これは閉校記念として作った模型なんですよ、と管理人さん。

本当はこの模型だけ残して校舎は取りつぶす予定だったのだとか。そう考えるとここを残そう、と決断した人たちに感謝ですね。そうでなければ島鉄はそもそも檜原村の存在を知らず、「ここへ行ってみたい!」と思うこともなかったかもしれないのですから。

 

そのお陰か、寄贈品が非常に多く、直接数馬分校とは関係のないものも置いてあるのだとか。2階廊下の奥に鎮座するポンプ車はその筆頭です。

(……このままでは物置みたいになるのでは?)

そう思った島鉄ですが、管理人さんのにこやかな表情を見ると何も言えませんでした。

なかには貴重な寄贈品も。1927(昭和2)年新調(?!)のカイコガの繭から絹糸をとる道具です。前述の兜造りという養蚕のための建築が点在していた数馬地区ならではの寄贈品ですね。

(しかし、このまま寄贈されまくっていてはそのうち床が抜けてしまうのでは……)

そんな懸念をよそに、管理人さんがグルグルこの絹糸とりマシーンを回していたので、島鉄も挑戦してみました。これ手を突っ込んだら持ってかれるな、と思うくらいのスピードが出るので案外グルグル回すの楽しかったです。

数馬分校に訪れたらばぜひぶん回してみて下さい。ストレス発散になります(壊さないくらいの優しさでお願いします)。

 

一度は持ってみたかったデカいコンパスと大ぶりなそろばん

ぜひ手に取って使ってみて下さい、とオススメされたので黒板にデカいコンパスを使って円を描いてみました。なかなか、これが難しい。チョークを使って黒板に板書って意外と技術がいるんですよね*6

大ぶりなそろばんも置いておりましたが、先生用のドデカイそろばんもあればよかったなあ(←なんなんだ)。

 

数馬分校での思い出……冬は雪が積もるのでスキーをした、運動会は地区連合のもので集落中の人や親も含めて参加する一大イベントだった等を管理人さんから色々教えてもらい、とても濃密な2時間半を過ごせました(こんなに長居する人はいないかも……)。

山間部のレトロな学校に興味がある方は必見ですよ、ここは。

卒業記念品の学校の思い出の絵。都内ながら東京見物の行事があっていいですね



さて、数馬分校のすぐ近くには兜造りの秘湯がある……と聞いたのでそちらにも向かってみます。

おおー。この養蚕のため採光する工夫として障子窓が設けられる等した屋根が「兜造り」の特徴ですね。なんとなく変わった形だな~、なんでなんだろう?と意味が分かってきます。

www.tsuruokakanko.com

有名所で言うと「兜造り」は山形県鶴岡市にも旧家の住宅として残っていますね。

ここ檜原村数馬地区は知る人ぞ知る(?)歴史に名を遺す建築の集積地なのです。

草木と一体化したその姿から悠久の歴史を感じます。

この兜造りを今に伝える秘湯は「蛇の湯温泉 たから荘」といいます。

たから荘

HPもいたってシンプル。日本秘湯の会に所属しており、温泉に入る際(もしくは宿に泊まる際)には必ず秘湯の会の文言が目に入ります。

 

ううむ。まるで山奥の都会の喧騒から離れた別世界に来ているようですが、ここはれっきとした東京都です。

いやまあ……東京都に限らず、どの都道府県でも秘境はあるんですけども。なんだか東京都から一歩も出ていないと思うと何だか不思議な気分がしますね。

 

温泉内部の画像はありませんが(トーゼン)、泉質はさらっとしていて当日小雨の降るやや肌寒い体を温めてくれました。

公式HPによると傷ついた大蛇が傷を癒していたのだとか。道後温泉もそうですが、動物が怪我を癒している姿から温泉が発見されるという説話は結構見受けられますね。

 

1.先行研究と本稿の目的
世界でも有数の温泉国である我が国では、
多くの温泉地に温泉発見の経緯や由来を語っ
た伝説が伝えられている。この温泉発見伝説
民俗学でも早くから注目を集め、高木敏雄
が『日本伝説集』の「縁起伝説」に取り上げ
ているのが嚆矢になる(1)。また柳田國男も、
『山島民譚集』の中で動物名の付いた温泉とそ
の由来について記し、白鷺や鹿等は古来霊物
であり、神主や僧侶が発見者の場合には、土
地の神仏の使者伝令とされるのは当然のこと
と述べている(2)。その後『日本神話伝説集(3)』や『日本伝説名彙(4)』にも、温泉に関わる伝説を挙げている。
宗教学者の加藤玄智等による「温泉の信仰
と伝説」(『温泉大鑑』)では、発見伝説が細か
く七分類され、「鳥獣に教えられて発見した温
泉」は、「猟師、樵夫、亡命者等に発見された
温泉」に次いで二番目に挙げられている(5)。
また山口貞夫は「温泉発見の伝説」において、
伝説を神託あるいは霊夢によるもの、著名な
高僧武人の手引きによるもの、傷ついた動物
の浴泉によるもの、武将の傷兵を送った場合
の四つに分類している(6)。

その後、各地の伝説を編んだ『日本伝説大系』が示した話型では、温泉発見伝説は「温泉発見 I(動物の導き)」と「温泉発見 II(薬師如来のお告げ)」に二分類される(7) 等、分類については多くの研究者によって試みられてきた(8)。このように、温泉発見伝説の分類を巡る考察が盛んであり、その分類には若干の変遷がみられるわけだが、動物の関わる伝説が温泉発見伝説の中でも重要な位置を占めている点に間違いはないだろう。動物との関わりではまた、温泉医学者が動
物種を指摘する等、他分野からの考察も進め
られてきた(9)。

中でも注目されるのは、温泉の泉質から考察する近年の研究である。一つは怪我や傷に効能のある温泉には、動物が発見したものが多いという分析であり(10)、動物の発見につながる温泉は塩類泉が最も多く、動物の生活や慣習が温泉の泉質に関係しているという指摘である(11)。後者は温泉発見伝説が単なる物語ではなく、そのもとには動物と温泉とを結びつける実態があった可能性を感じさせるものである。

引用:『温泉発見伝説と動物』 菱川 晶子(2015.3 P71-84)

調べたら菱川 晶子氏の先行研究について解説する論文が出てきました。

お告げに並んで動物の導きが温泉発見伝説の主流を占めているのは興味深い(なおこのあと菱川氏の論文の主題の長野県上田市にある鹿教湯温泉における動物と温泉発見伝説がまとめられています。この温泉も蛇湯と言われていたのだとか)ですね。

 

東京の奥座敷檜原村の数馬地区には山村の歴史を伝える学校と秘湯があります、都心からは2時間以上と鎌倉や日光など同じ関東圏の観光地に行くより時間がかかるかもしれません。

しかし、一度は訪れてほしい……そんなノスタルジックを感じる素敵なところでした。

 

多摩……なかなか奥深い地域です。記事執筆時(7月)も最低気温は25度を下回る檜原村(都心と比べて3度近く低いです。日中は30度を越えてますが……)にぜひお越しください!

*1:ほとんどの方がそうだと思いますが……

*2:武将の兜に似た形から名付けられた養蚕のために独特な屋根のかたちをした建物のことです

*3:なんと東京~武蔵五日市駅間の交通費よりも高いです

*4:後ほど教えてもらったのですが、昔ここ数馬分校に勤務されていた先生でした

*5:時代によって若干曲のレパートリーが変わっていて面白いです

*6:教育実習で得た一番の学びです