随分と前に行った国立ハンセン病資料館の「私の手は曲っている」展と、清瀬市で出会った団地について、猛暑のなかまとめてみました。
この企画展のポスターに載せられている詩、「生きるということ」(いのちの芽収蔵 志樹逸馬 1953)のそれでも生きなくてはいけない、という強いメッセージに惹かれて西武鉄道に揺られて東京と埼玉の境目である清瀬市まで行きました。
ここから歩いて20分ほどで国立ハンセン病資料館へ着きます。陽射しを遮るものがない住宅街を歩くので、記事を書いている現在(2023.8月)、フラリと訪れるのはちょっと厳しいかもしれません。
川を渡り、団地の横を抜け……到着!
ここ国立ハンセン病資料館は公園が隣接しており、散策できるようになっています。ただし入口に注意書きがありました。
資料館隣にある多磨全生園は「高齢者の住む医療施設」なのでコロナウイルス感染症対策のため園内へは立ち入り自粛するよう云々。
「国立療養所」の文字を見ると、ここがかつてハンセン病患者を隔離していた場所だと想起させますね。
資料館入口にある母娘遍路像は、ハンセン病と診断され療養所に隔離されれば、家族と憩う時間が二度と訪れないため入院前に遍路旅へ出かける、という風習について触れています。
私はこの資料館に入るまで、"ハンセン病患者の"母の哀しみを表しているな……と思っていたのですが、集落で"身内がハンセン病患者である"残された家族(=娘)の苦しみも同時に表現されているのです。
このハンセン病患者とその家族への補償についてはパネル展示で詳しく知ることができました。
社会の偏見に晒された病は、病にかかっていない人たちにも偏見をもたらす……。
そう考えてみると、新型コロナウイルス禍でも医療従事者の家族に対する偏見がありました。
人間はそうそう変わらないな、と思いつつ「私の手は曲っている」展の開催されている2階へと向かいます。
中でも以下の2つの詩が特に印象的でした。
あれから幾度 秋がいった
妹の泣き顔
故里の空
駅のホーム
も みんな変わらない 私の心象の中では
妹は今でも 私の病を知らない
いつかはわかるだろう
兄は いくら待っても帰れないという事を
やがて
永遠に消えない悲しみの灯が
お前の心にも点るだろう。
妹よ 淋しくはないか
妹よ 悲しくはないか
私は今でも背戸の柿の木に登って
遠い空を見ている
日暮れは雲と一しょに筑波嶺を越えたりする
夜更にお前の耳もとでささやく。
「妹の手紙を見て」 國本 昭夫
もう二度と故郷へは帰れない兄と、そのことをまだ知らず手紙を遣る妹。
あの宗教家は 神を信じなさい と 云った、が。
ある政治家は もっと皆様の幸福のために 努力しましょう と 云った、が。
ある慈善家は、あなた方は こんな風光明媚な所に 住んでいて、倖ですよ と 云った、が。
いつかの慰問団は、いつの日か 機会が ありましたら、またきましょう。 と 云った、が。
ある医師は きっと いつかは なおる時代もきましょう と 云った、が。
あの男は微笑まなかった。
つれづれの 友となりても 慰めよ ゆくことかたき 我れにかわりて
あの御下賜の歌にも
「微笑まなかった男」 森 春樹
色々な立場の人が、ハンセン病患者に向けてそれぞれ違った言葉を投げかけます。
それは救いの言葉、憐れみの言葉でしたが、隔離されている男は微笑まなかった。
「外から同情する人」と「内に閉じ込められた人」の大きな溝が可視化されます。
そんなにも憐れみ深い貴方は、なぜ私を閉じ込めるのですか、なぜ許せるのですか。
そう問われている気がします。
ちなみに展示はこんな感じでした。
回遊しながら気に入った詩は再び見に行く方式(?)です。
ちょうどハンセン病政策や『いのちの芽』収蔵の詩と作者についての解説をされている方がいたのでラッキーでした。
またハンセン病患者と交流した大江満雄氏についてもコーナーが設けられていました。
何を隠そう大江氏とハンセン病患者との交流が始まったのは、本展示の主役である詩集『いのちの芽』の刊行がきっかけです。
中でも私が驚いたのはハンセン病患者と車座になって話す、という写真です。
戦後も隔離施設を存置していた当時、このような交流は考えられないことでしたが、それを行ったのです。
ハンセン病は日本で癩病(らいびょう)と呼ばれていましたが、大江氏は癩病患者→癩者→来者と表現しています。
来者とは来るべき者であり、作詩と思索を続けるハンセン病患者の姿勢が生きることについて非ハンセン病患者にも考えさせるきっかけになる、という意味が込められているのではないかと思いました。
来者の群像 大江満雄とハンセン病療養所の詩人たち|オンラインショップ|スロウな本屋
常設展示では、隔離施設(例えばここハンセン病資料館はかつて多磨全生園と呼ばれていました)の内実やハンセン病と社会の関わりについての歴史を知れます。
近代以前の宗教による救済と偏見*1、そして近代化し科学的思考が広まってからも偏見はなくなることがなく、現代に至る……。
隔離施設に入るとともに、使っていた円を園内通貨に替えるさまは漫画『賭博黙示録カイジ』のペリカを思わせます。
ハンセン病患者が不自由な体ながら施設内で様々な労務にあたり、建築物も含めて多くの物を作っていたことも驚きました。
まるでガス室のないナチス・ドイツの強制収容所*2、或いは第二次世界大戦下のアメリカにおける日系人収容所を思わせます。
湯治が効くということからハンセン病患者たちに園内で温泉を掘らせる、なんてブラックジョークのような話を知り、思わず苦笑いしてしまいました。
そんな過酷な環境下で詩を作り、結婚をする、祭りを楽しむ……。
文化的な営みを通じて「生きる」ハンセン病患者たちの姿に、創作することの意味――ただ食べて働いて寝るだけではなく、文化的な活動によって人間として生きている実感が湧く――を考えさせられました。
さて島鉄は真面目なので(←!?)国立ハンセン病資料館を出る際にアンケートを記入しました。すると幻の詩集『いのちの芽』をもらえるではありませんか!
……もう終わった展示なので、いま情報共有してもさほど意味はないと思いますが、まさか詩集をいただけると思っていなかったので非常に驚きました。
いのちの芽 : 詩集 (国立ハンセン病資料館): 2023|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
非売品のようです。これで気に入った詩をいつでも読みかえせます。ありがたいことです。
さらにネパールのハンセン病患者施設の方が作ったポストカードももらえました。
……こんなにもらっていいのかな?
ハンセン病についての歴史を知り、病と人・社会の関係性を学べる施設。アクセスは少しだけ不便なところですが、一度はハンセン病資料館を訪れるとよいかもしれません。
陽が傾きかけた清瀬の街をあとにします。
駅へ向かう途中にコミュニティバス―—きよバス――のバス停を発見。
ベトレヘム。
えっ?!なんで??
驚くなかれ、ここは社会福祉施設「ベトレヘムの園病院」の名前からとられたバス停なのです。
にしても直球なバス停の名前ですね。山万ユーカリが丘線の「女子大駅」以来の驚きです。
そしてとことこ歩くと行きに見つけた素敵な(?)団地が。
水道塔でっかいな~、と思いながら写真を撮っていると住民と思しきオジサマから声をかけられました。
水道塔撮るのマズかったかな……?なんて不安に感じましたが、杞憂でした。
どうやらオジサマは丁度買い物に行く途中で「この人ナンデ写真なんか撮ってんだろ?」と思って話しかけたみたいです。
水道塔が好きで撮ったと話したところ、色々と生い立ちから団地住まいの良さまで聞くことができました。
親切にありがとうございます!
住んでいない人の部屋が鳩の住まいになり困っていること(団地あるある)、水道塔の色は大体水色なこと(都営団地あるある)、都内にも関わらず家賃が激安なこと……。
まさかの団地トークを楽しめました。
清瀬の住ポテンシャル高いかもしれないなぁ。
オジサマから「水道塔好きならもっとでっかいのが駅の向こうにあるよ~」と教えてもらい、ハンセン病について理解を深める日だけでなく、まさかの団地の水道塔の理解も深められる日になったのでした。
ここが清瀬野塩団地です。もしかしたらオジサマの言ってた団地とは違うかもしれませんが……。
この団地は川のすぐ近く*3、駅よりも低い位置にあります。
そのため駅を抜けて歩いて夕日と住宅街を眺めているときに「水道塔がある!」というふうに発見しました。
こちらの水道塔はとっくり型。阿佐ヶ谷住宅などで見られる少し古いタイプの水道塔です。こころなしか団地の建物も古いよーな……。
いわゆるゲタバキ団地で、一階部分に店舗が入っていますが、どこもくたびれており(←失礼)、裏手に回ってみるとなかなか歴史を感じさせますね。
さらに歩くとカラーコーンが大量にある空間が広がっていました。たぶん駐車場でしょう。うっすらと浮かぶ月が綺麗。
老若男女が集う運動広場にも人はいません。看板が錆び錆びで何書いてるのか分かりにくいですね。
あ、でも子供は自転車に乗ってこの運動広場以外のところでフツーに遊んでいました。
まあ、団地のちょっとしたスペースで遊ぶと駐車場もあったりして怒られますし、別の場所で遊びますよね(これは私の経験による憶測でしかないですが)。
古めかしい昔ながらのいい団地だなー、なんて思って川沿いまで歩いてみると、ピッカピカの建物が現れてビックリしました。
なるほど、絶賛建て替え中なんですね!
あまりのギャップにくらくらします。
だってこんなコンクリ製の生き物がいる団地なんですよ?!
そこから少し歩いて行くと綺麗な建物があるなんて思わないじゃないですか。
川向こうに見える夕日がきれいな新旧色んな建物の見られる清瀬野塩団地。
なかなか住むにはいいんじゃないですかね。駅までも徒歩15分以内、自転車……は行きは登り坂ですが帰りはラクです(とーぜん)!!
駅までの帰り道で清瀬市と所沢市の境目を歩くことができました。
右と左どちらも似たようなアパートなのに、ごみ回収のルールが違う!
と一人でコーフンしてました。ゴミ出しの日を間違えたとき隣のアパートのゴミ置き場に出す……って人いるんじゃないかな?そんなヒジョーシキな人いない??
……ハンセン病資料館でのしみじみとした気分から、思い切り島鉄の趣味(?)の話に飛躍して困惑されている方もいるかもしれませんが、許してください。
あのとき水道塔を撮っていなければ、オジサマに会わなければ、こんなことにはなっていなかったでしょう。
そう考えると、いかなる理由があれど社会から隔離されてよいことなどない、そう断言できますね*4。
自由に生きられることの尊さを噛みしめて、西武電車に揺られて帰路に着きました。