埋物の庭

埋物の庭

街中にあるつい見落とされがちで埋もれてしまっているもの(=埋物、まいぶつ)を紹介します。

東京にも村はある~山の学校編~

6月終わる時点でGWに行ったところの記事を書いている、夏休みの宿題は最終日にやる(間に合ってない)主義の島鉄です。

 

この前記事にした檜原村で、一番行きたかった(行ってよかった)スポットを紹介していませんでした。

それは……。

急斜面に上にある山の小さな分校

数馬分校です!

 

まず数馬がどこなのか、檜原村の地理に詳しくないヒト*1に説明いたします。

この地形図、たくさんの文(学校)の地図記号が書かれていて哀愁を誘います。

この懐かしさを覚える縄跳びの上に飾られている地形図の左下らへんです。

え?伝わらないですか??

 

ザックリ言うと、山を越えるとお隣は山梨県……檜原村のなかでも奥座敷と言ってよい地域が数馬地区なのです。赤く囲ってみました。それにしても、地形図から檜原村がいかに山がちか分かりますね。

なかなかすごいところに来てしまったぞ。

ちなみに数馬地区は温泉と兜造り*2の伝統建築家屋で有名です。

www.ichiro-ichie.com

 

ちなみに、島鉄檜原村を知ったキッカケは小学校の授業でまさにこの「檜原村」について社会科の授業で教わり、「数馬分校」を調べたことに始まります。

まさか、武蔵五日市駅からバスに揺られて1時間、1,000円以上も*3運賃を払う秘境に学校があったなんて……。

 

あ、申し遅れました、ここ数馬分校は1999(平成11)年3月に閉校して今は資料館としてその姿を今に伝えています。

下見板建築っぽい白亜の校舎がこちら。

風情がありますね。バスケットゴールがボロボロなのはご愛敬。

この小さな山の分校は、急坂の上に切り開かれたわずかばかりの平地に建っています。

坂の下にはお寺があり、昔は寺院の伽藍を小学校としていたとか。

校庭のすみっこにひっそりとたたずむ遊具がいいですねえ。

建っている石碑は新校舎設立記念のもの。

現存する白亜の木造2階建て校舎は新しいもの(1959 昭和34年落成)だったのですね。

 

島鉄が訪れたときは小雨が降り、誰もこの分校を訪ねてきていないようでした。

管理人らしきおじいさん*4に声をかけて入ってよいものか尋ねると、各教室や先ほど紹介した檜原村の地形図などについてこころよく解説してくれました。

ここから入ります。入ってすぐに手洗い場があるのは小学校らしいですね

小学生時代以来となる(?)手洗い場で腰をかがめながら手を洗い廊下を歩きます。

2階へと続く階段を通り過ぎてすぐ、図書室らしき部屋がありました。

昔懐かしい偉人伝に、小学生時代に読んでいた児童文学が並ぶ姿に思わず「おお~」と声が漏れてしまいます。

他の教室にも本棚がいくつか置いてあり、本は分校時代のものだけではなく、各地の小学校や先生等から寄贈してもらったものもあるそうです。

なかなかノスタルジックな気分に浸れます。

 

あと、これは世代や地域にもよると思いますが懐かしのストーブが置いてありました。冬の厳しい雪国や山間部の学校には各教室にストーブが一つは設置されていたとか。

後ろの数馬分校の標高が686mなのにも驚きました。島鉄が長野県松本時代に住んでいたアパートよりも標高が高い(……スカイツリーより高いの方が伝わりますか?)!!

 

隣の教室……いやここは教室というより職員室みたいでした。トロフィーや教育関係の本が多数置かれています。

学校と言えばトロフィーのいっぱい入ったケースですよね(?)

タヌキなどの剥製が飾られているのは山村の学校らしさが感じられていいですね。

本棚に『複式学級』、『へき地の教育方法』などの本が置いてあるのも分校らしさを感じます。

meisei-hekiken.jimdofree.com

島鉄の祖母は小学校教師でしたが、山間部の学校では複式学級での授業をおこなっていたと聞いたことがあります。意外と上級生が下級生の面倒をみたり、児童数も少ないので目が行き届いてよかった(個人の感想です)そうな。

 

都心の学校でも複数担任制や少数学級などの方法が模索されていますが、へき地教育の最前線にいる教員の力が必要とされる時代が来ているのかもしれません。

小学校における35人学級の実現/約40年ぶりの学級編制の標準の一律引下げ

(↑とはいえ少数でも35人を教えるのって大変そうですが……)

 

閑話休題

音楽室の足踏みオルガンやタンバリン、児童用の歌集*5もなかなかノスタルジックでいい感じ。

「置いてあるものは自由に触って使っていいですよ」と管理人のおじいさんから許可を得たのでおそるおそる足踏みオルガンを弾いたりしてました。

いちばん奥の教室の黒板は閉校当時のものをそのまま保存しているそうです。

通っていない小学校なのに、なぜだか胸がしめつけられるような寂しさを感じました。

卒業と違って閉校だもんなあ。

もっとも数馬分校は閉校後も残されているので、卒業生がかつての姿を偲ぶことができるのは幸せかもしれません。

 

来た道を引き返すと、お昼時にもかかわらず管理人さんが階段を上って2階の解説もしてくれました。

飾っている習字や、でっかいカマキリ、廊下突き当りの左奥にある青い小舟……これらはすべて数馬分校の児童たちが作ったものだそうです。

青い小舟は実際に川下りで使ったとか。学校が現存していればおそらく捨ててしまわれたであろうモノたちが、こうして残っているのは皮肉にも閉校したからでしょうか。

管理人さんによると、もともと数馬分校の児童数は少ないので学芸会などで作ったものは廊下や教室に飾り付けていたそうです。

 

これは閉校記念として作った模型なんですよ、と管理人さん。

本当はこの模型だけ残して校舎は取りつぶす予定だったのだとか。そう考えるとここを残そう、と決断した人たちに感謝ですね。そうでなければ島鉄はそもそも檜原村の存在を知らず、「ここへ行ってみたい!」と思うこともなかったかもしれないのですから。

 

そのお陰か、寄贈品が非常に多く、直接数馬分校とは関係のないものも置いてあるのだとか。2階廊下の奥に鎮座するポンプ車はその筆頭です。

(……このままでは物置みたいになるのでは?)

そう思った島鉄ですが、管理人さんのにこやかな表情を見ると何も言えませんでした。

なかには貴重な寄贈品も。1927(昭和2)年新調(?!)のカイコガの繭から絹糸をとる道具です。前述の兜造りという養蚕のための建築が点在していた数馬地区ならではの寄贈品ですね。

(しかし、このまま寄贈されまくっていてはそのうち床が抜けてしまうのでは……)

そんな懸念をよそに、管理人さんがグルグルこの絹糸とりマシーンを回していたので、島鉄も挑戦してみました。これ手を突っ込んだら持ってかれるな、と思うくらいのスピードが出るので案外グルグル回すの楽しかったです。

数馬分校に訪れたらばぜひぶん回してみて下さい。ストレス発散になります(壊さないくらいの優しさでお願いします)。

 

一度は持ってみたかったデカいコンパスと大ぶりなそろばん

ぜひ手に取って使ってみて下さい、とオススメされたので黒板にデカいコンパスを使って円を描いてみました。なかなか、これが難しい。チョークを使って黒板に板書って意外と技術がいるんですよね*6

大ぶりなそろばんも置いておりましたが、先生用のドデカイそろばんもあればよかったなあ(←なんなんだ)。

 

数馬分校での思い出……冬は雪が積もるのでスキーをした、運動会は地区連合のもので集落中の人や親も含めて参加する一大イベントだった等を管理人さんから色々教えてもらい、とても濃密な2時間半を過ごせました(こんなに長居する人はいないかも……)。

山間部のレトロな学校に興味がある方は必見ですよ、ここは。

卒業記念品の学校の思い出の絵。都内ながら東京見物の行事があっていいですね



さて、数馬分校のすぐ近くには兜造りの秘湯がある……と聞いたのでそちらにも向かってみます。

おおー。この養蚕のため採光する工夫として障子窓が設けられる等した屋根が「兜造り」の特徴ですね。なんとなく変わった形だな~、なんでなんだろう?と意味が分かってきます。

www.tsuruokakanko.com

有名所で言うと「兜造り」は山形県鶴岡市にも旧家の住宅として残っていますね。

ここ檜原村数馬地区は知る人ぞ知る(?)歴史に名を遺す建築の集積地なのです。

草木と一体化したその姿から悠久の歴史を感じます。

この兜造りを今に伝える秘湯は「蛇の湯温泉 たから荘」といいます。

たから荘

HPもいたってシンプル。日本秘湯の会に所属しており、温泉に入る際(もしくは宿に泊まる際)には必ず秘湯の会の文言が目に入ります。

 

ううむ。まるで山奥の都会の喧騒から離れた別世界に来ているようですが、ここはれっきとした東京都です。

いやまあ……東京都に限らず、どの都道府県でも秘境はあるんですけども。なんだか東京都から一歩も出ていないと思うと何だか不思議な気分がしますね。

 

温泉内部の画像はありませんが(トーゼン)、泉質はさらっとしていて当日小雨の降るやや肌寒い体を温めてくれました。

公式HPによると傷ついた大蛇が傷を癒していたのだとか。道後温泉もそうですが、動物が怪我を癒している姿から温泉が発見されるという説話は結構見受けられますね。

 

1.先行研究と本稿の目的
世界でも有数の温泉国である我が国では、
多くの温泉地に温泉発見の経緯や由来を語っ
た伝説が伝えられている。この温泉発見伝説
民俗学でも早くから注目を集め、高木敏雄
が『日本伝説集』の「縁起伝説」に取り上げ
ているのが嚆矢になる(1)。また柳田國男も、
『山島民譚集』の中で動物名の付いた温泉とそ
の由来について記し、白鷺や鹿等は古来霊物
であり、神主や僧侶が発見者の場合には、土
地の神仏の使者伝令とされるのは当然のこと
と述べている(2)。その後『日本神話伝説集(3)』や『日本伝説名彙(4)』にも、温泉に関わる伝説を挙げている。
宗教学者の加藤玄智等による「温泉の信仰
と伝説」(『温泉大鑑』)では、発見伝説が細か
く七分類され、「鳥獣に教えられて発見した温
泉」は、「猟師、樵夫、亡命者等に発見された
温泉」に次いで二番目に挙げられている(5)。
また山口貞夫は「温泉発見の伝説」において、
伝説を神託あるいは霊夢によるもの、著名な
高僧武人の手引きによるもの、傷ついた動物
の浴泉によるもの、武将の傷兵を送った場合
の四つに分類している(6)。

その後、各地の伝説を編んだ『日本伝説大系』が示した話型では、温泉発見伝説は「温泉発見 I(動物の導き)」と「温泉発見 II(薬師如来のお告げ)」に二分類される(7) 等、分類については多くの研究者によって試みられてきた(8)。このように、温泉発見伝説の分類を巡る考察が盛んであり、その分類には若干の変遷がみられるわけだが、動物の関わる伝説が温泉発見伝説の中でも重要な位置を占めている点に間違いはないだろう。動物との関わりではまた、温泉医学者が動
物種を指摘する等、他分野からの考察も進め
られてきた(9)。

中でも注目されるのは、温泉の泉質から考察する近年の研究である。一つは怪我や傷に効能のある温泉には、動物が発見したものが多いという分析であり(10)、動物の発見につながる温泉は塩類泉が最も多く、動物の生活や慣習が温泉の泉質に関係しているという指摘である(11)。後者は温泉発見伝説が単なる物語ではなく、そのもとには動物と温泉とを結びつける実態があった可能性を感じさせるものである。

引用:『温泉発見伝説と動物』 菱川 晶子(2015.3 P71-84)

調べたら菱川 晶子氏の先行研究について解説する論文が出てきました。

お告げに並んで動物の導きが温泉発見伝説の主流を占めているのは興味深い(なおこのあと菱川氏の論文の主題の長野県上田市にある鹿教湯温泉における動物と温泉発見伝説がまとめられています。この温泉も蛇湯と言われていたのだとか)ですね。

 

東京の奥座敷檜原村の数馬地区には山村の歴史を伝える学校と秘湯があります、都心からは2時間以上と鎌倉や日光など同じ関東圏の観光地に行くより時間がかかるかもしれません。

しかし、一度は訪れてほしい……そんなノスタルジックを感じる素敵なところでした。

 

多摩……なかなか奥深い地域です。記事執筆時(7月)も最低気温は25度を下回る檜原村(都心と比べて3度近く低いです。日中は30度を越えてますが……)にぜひお越しください!

*1:ほとんどの方がそうだと思いますが……

*2:武将の兜に似た形から名付けられた養蚕のために独特な屋根のかたちをした建物のことです

*3:なんと東京~武蔵五日市駅間の交通費よりも高いです

*4:後ほど教えてもらったのですが、昔ここ数馬分校に勤務されていた先生でした

*5:時代によって若干曲のレパートリーが変わっていて面白いです

*6:教育実習で得た一番の学びです