埋物の庭

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街中にあるつい見落とされがちで埋もれてしまっているもの(=埋物、まいぶつ)を紹介します。

『吉原炎上』 ーー人生の無意味さと向き合うこと

映画『吉原炎上』を観た。リンク貼れなかったけどプライムビデオで観れるよ。

 

 

あらすじを紹介するとこんなかんじ。

 

主人公の久之は、仕事中の事故で死んだ父親の賠償金の工面のために吉原にやってくる。
娼婦として働くことに葛藤するが、やがて覚悟を決める。

御職(娼家の最高位の遊女)に昇りつめ、最後には身請けをされて吉原を去る。

 

遊郭の建物や遊女たちの衣装、細かい小道具の作り込みがすごくて、役者の真に迫った演技に圧倒された。ヌードシーンやどぎつい表現もあるので万人にはおすすめできないけど興味のある人はぜひ観てほしい。

 

物語の中で久乃と馴染客の古島が語るシーンが強く印象に残った。

その会話は、小花という元御職が自分のいた部屋を新しく御職になった久乃に取られて激怒し暴れたため、仕方なくふたりが別の部屋に避難してきたところから始まる。

 

久乃「あんまりじゃないか…どうしてあたしがこんな目に合わなきゃならないんですよ!あたし精一杯小花さんのために…でもあの人の嘘を知って……あの人大嘘つき!家系も弟の話も噓!あの写真だって道で拾った赤の他人のものなんですよ!(小花は帝大医学部に通う弟の学費のために吉原で働いていると噓をついていた)」

 

古島「嘘でいいじゃないか…この世の中にたったひとつでも真実だと言い切れるものがあるのか?この吉原だって噓、伊藤博文だって、古島財閥だって、この日本帝国だって噓のかたまりだ。小花の噓くらい大事にしてやれ。御職の部屋なんぞ小花に返して」

 

久乃「若さん!…この吉原が嘘の世界だってことは百も承知ですよ。でもね若さん、噓の世界にだって約束事ってものがあるんだ。御職の位はあたしがこの身体で稼ぎとったもんだよ。それを…どうして客もとれなくなった花魁に譲ってやんなきゃいけないんですよ…あたしはね、みじめな女になりたくないんだ。嘘でいい。噓だっていい。あたしはこの噓の世界で、いちばん大きな花咲かせたいんですよ」

五社英雄監督『吉原炎上』、 名取裕子出演、1987年、東映

 

 

古島は部屋ひとつで大騒ぎになる吉原の人々に呆れている。そして、この世はすべて噓だ、それなら取るに足らない小花の噓くらい叶えてやれと言う。

 

それに対して久乃は、吉原が噓の世界であるということを承知したうえで、吉原での自分の努力は報われてほしい、自分の願望を実現したいと言っている。

 

このやりとりを観ていて、哲学者トマス・ネーゲルの「人生の無意味さ」という文章のことを考えた。というか、たまたま映画を観る直前までこの文章を読んでいたので想起しないではいられなかった。

 

 

ネーゲルはこう語っている。

 

われわれはつねに、自分が現に生きている特定の生のかたちの外部に、ある視点をもつことができ、そこから見れば真剣であることは根拠のないことに見えてくる。われわれが持たざるをえないこの二つの視点が、われわれの中で衝突し、その結果、人生が無意味なものとなる。

(トマス・ネーゲル著 永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』「人生の無意味さ」、勁草書房、1989年、p.22)

 

「外部から見れば根拠のないことに見えてくる」という主張は古島が言っていることと似ている。古島は吉原も日本帝国も噓だという。噓という言葉は虚構と読み替えてもいいと思う。

虚構は人々によって信じられている間は存在しているように思われるが、人々が信じなければ存在しないものだ。だから虚構は外から見れば無意味に見える。

実際、吉原は終盤で燃えてこの世からなくなる。時間の経過によって吉原という虚構が儚くもなくなってしまうことからも、古島の主張にはある程度納得ができる。

 

古島のアイロニーは生きていると人が避けがたく抱いてしまうものだと思う。
自分の日常のことを振り返ってほしい。所属する組織や社会のどうにもならなさを考えるとき、すべてはただの虚構で、まったく無意味なように思えてこないだろうか。

 

だがしかし、古島の主張への久乃の応答には、人生の無意味さに向き合う重要な態度が示されているように思える。ネーゲルはこう書いている。

 

「人生は無意味だ、人生は無意味だ」とつぶやいてみても、無益である。生き、働き、努力し続けることにおいて、口でなんと言おうと、われわれは行為において自分を真剣に扱っているのである。信念と行為においてわれわれを支えているものは、理由や正当化ではなく、もっと根底的な何かであるーーというのも、理由が尽き果てたことを納得した後でさえ、われわれはこれまでと同様にやっていくからである。
(同 pp.33-34)

 

久乃の態度は、行為において自分を真剣に扱うことと言えると思う。噓と知ってなおそのなかで生きてゆくという態度だ。真剣に生きて人生を追求している。

久乃は古島との会話のあと、長らく吉原で行われていなかった伝統の花魁道中を復活させて見事に花を咲かせる。願望を実現させたのだ。

 

人生の無意味さと向き合う人々の態度についてネーゲルはどう考えているだろう。こう書いている。

 

第一は、自分の願望を変える方法。第二は現実の方を願望に適合させようと試みる方法。第三は、自分自身がその状況から完全に身を引く方法。

(同 p.21)

 

久乃は現実を願望に適合させようと試みたのだった。この映画は、春の章、夏の章、秋の章、冬の章と四つの章から構成されていて、それぞれの章で久乃以外の花魁がヒロインとなっている(とウィキペディアで知った)。彼女たちの取る選択は、上のいずれかの態度に該当していて、よく練られた脚本だなと思った。

 

鑑賞のあとの気分は重いけど、自分自身の日常を改めて考えるきっかけになる示唆に富んだ作品だった。