埋物の庭

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街中にあるつい見落とされがちで埋もれてしまっているもの(=埋物、まいぶつ)を紹介します。

映画『化け猫あんずちゃん』の感想

 

心に響く夏映画だった。

 

冒険。非日常への旅立ち。出会いと別れ。

 

どんな映画

いましろたかしさんの同名の漫画が原作。

化け猫あんずちゃん (コミックボンボンコミックス)

 

ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』で有名な日本のシンエイ動画とフランスのスタジオ「Miyu Productions」の日仏共同制作。『ドラえもん』の映画のクオリティの高さを知っている人は期待していい。

 

映像はロトスコープ(撮影した実写からアニメ化する手法)を使っていて空間のなかでの動きが細かくてリアル。といってもキャラクターや背景はリアルすぎず柔らかい雰囲気。あんずちゃんのまるくてユーモラスなビジュアルが活きるぴったりの表現だと思う。

 

あらすじは、11歳のかりんちゃんが夏の間お父さんの実家のお寺に暮らすことになって、そこで化け猫のあんずちゃんと一緒に亡くなったお母さんを探しに地獄(!)へ行くというストーリー。

 

以下好きなところと思ったことを書いていく。ネタバレあり。

 

夢想と現実のディスコミュニケーション

かりんちゃんの生きづらさの描き方が好き

 

かりんちゃんは、借金で首が回らなくなっているお父さんに対して大人びた子どもだ。現実をうまく立ち回る術を知っていて、斜に構えているところがある。自分の可愛さも利用するし裏工作もする。お母さんが亡くなってお父さんもだめだめな辛い現実を生きていくためにはそうせざるをえなかったのだろう。

 

けれど、かりんちゃんと一緒にお寺から家のある東京に一時的に帰ることになって、同じ塾に通っていた男の子とカフェで会うとき、本音をあらわにする。

 

かりんちゃんはこのまま駆け落ちしようと誘う。本気で。

しかしその返答は「受験があるので夏はがんばって勉強しようね」。

なんというディスコミュニケーション現実から離れたいかりんちゃんと、あくまで現実のなかに生きる少年。

 

ぼくはこういう夢想と現実がぶつかって決して交わらないコミュニケーションに心揺さぶられてしまう。サリンジャーライ麦畑でも似たような場面があるのを思い出す。

 

「ねえ、いいことを思いついた」と僕は言った。「二人でここを抜け出そうじゃないか。つまりこういうことなんだ。(中略)

僕らはその車で明日の朝、マサチューセッツとかバーモントとか、そういうあたりに行くのさ。あのへんは断然きれいなんだよ。じっさいの話」(中略)

朝に銀行が開いたら引き出そう。それからその男のところに行って、車を借りる。まじな話だぜ。そしてお金が尽きるまで、キャンプ場のキャビンみたいなところで暮らすんだ。お金がなくなったら、そのへんでなにか仕事を見つけて、小川が流れたりしているような土地に二人で住み、そのあとで結婚とかすりゃいいんだよ(中略)

どう思う? 最高じゃないか。ねえ、僕と一緒にそういうことをやろうよ。いいだろう!」

「あのね、そんなのできるわけがないじゃない」とサリーは言った。

 

pp.222-223 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』J.D.Salinger 村上春樹訳、2006年、白水社

 

だから、あんずちゃんと閻魔大王(地獄から追ってきたのだ)からバイクで逃げるときに、あんずちゃんがこのままどこまでも逃げようって言ってくれたのがすごいうれしかった。本当に。かりんちゃんうれしかっただろうから。

 

暴力的なものと逆立ち

かりんちゃんは嫌なときはほんとうに嫌そうな顔をする。

あんずちゃんたちといるときの素の様子はぜんぜん品行方正という風ではない。というか柄が悪いとさえいえる。あんずちゃんの自転車川に捨てさせるし。

 

かりんちゃんのそういった様子を含めるかは置いておいても、この映画には通底して暴力の香りがする。

あんずちゃんとお父さんの住む東京のアパートに幾枚にも貼られた取り立てと嫌がらせの紙。

お寺のまわりの少年たちのヤンキーの卵っぽさ。駅でたむろしたり目上の人へ服従して取り入ってるかんじ。

無免許ノーヘルでバイクを乗り回し、ときにはドスをきかせた声で相手を威圧することもあるあんずちゃん。お寺でムカついて、死ね!って連呼しながら障子を破きまくるシーンは笑っちゃった。

 

そして地獄での鬼たちのリアル暴力(まさにそこは地獄)と閻魔大王暴力団っぽさ。自分が関西に住んでるというのもあるけれど、関西弁であの雰囲気はわかりやすくそういうキャラクター設定だと受け取った。余談だけど地獄の閻魔大王の声優が宇野祥平さんというのも意図を感じる(白石監督作品の江野くん。詳しくは『コワすぎ!』シリーズや『オカルト』を観てほしい)。

 

閻魔大王に捕まって容赦なくしばかれるあんずちゃんたち。

もう解決策はお母さんが地獄に還るしかない。でもそれはまたあの暴力に充ちた世界へ戻るということ。悲しい。どんな目にあってしまうんだ。。

 

そう思っているとお母さんは笑って逆立ちをして閻魔大王の車へ進んでいった。この演出はハッとした。この作品のなかで逆立ちにはいくつかの意味がある。

 

ひとつは、地獄で(お父さんも含めて)人間が責め苦として逆さ吊りになるというまさに暴力そのものの象徴。自由を奪われて苦しみ続ける。

 

もうひとつは、かりんちゃんがひとりでする逆立ち。練習しているというのもあるし、度々行っているので頭を冷やして現実をうまく生きるための儀式という印象も受けた。

 

それが最期にお母さんとのお別れの場面で逆立ちできるようになったよ!って言っていたので、お母さんから教わっていたんだということが理解できて意味がわかった。

 

この作品において逆立ちは暴力的なものへの対抗、自律して生きることの象徴なのだ。込められたメッセージのことを考えて、すごいものを観たなとエンドロールで思った。

 

この作品はとても完成度が高い。ぼくの見方はひとつの切り口に過ぎなくて、きっといろんな見方ができると思う。たくさんの人に観てもらって、いろんな感想を聞きたいな。