いきなりですけど、みなさま源平伝NEOって、知ってますか??
あ、はい。知らないですよね。アニメ化もできず、小説も未完ですしね。
そーですよね。下手したら今から約四半世紀前ですもんね。
90年代メディアミックス王(勝手に命名)であらせられるあかほりさとる氏の力をもってしても源平期ブームは起こせませんでした。
しかし時は令和、大河ドラマでは『鎌倉殿の13人』
アニメでは『平家物語』
が絶賛放送中。
そう……!いまや大中世ブームなのです!!
え?日本史は戦国時代と幕末しか興味がない??
それはもったいない!!
日本史はどの時代も興味深いですが、戦国・幕末と比べて地味〜なイメージの源平期も面白い時代なのですよ。
えー、ここまで書いて勘のいい人ならピンとくるかもしれませんが、絶賛放送中の『平家物語』についての感想というか、雑記です。
あ、冒頭書いた源平伝NEOは歴史ものではなく異能力バトルです。
誰が敵で誰が味方か分からない感じは中世チックでよいです。
アニメ『平家物語』とは?
キャラクター原案が高野文子さん。
もう、この時点で私は「えっ?!」と惹かれてしまいました。
この権威主義者!と罵られてしまいそうですが、私は高野先生の短編集が好きなんです。
個人的には『絶対安全剃刀』に収録されている「田辺のつる」、という話が好きです。
私の親が介護職だからというのもありますが、自分のことを幼い少女だと思っているおばあちゃん(=ツル)が主人公として登場します。義娘(嫁)や息子、孫から疎んじられながらも、年齢を超越した少女性を見せるツル。他人(読者目線)なら可愛いおばあちゃん、なのですが身内ともなると反応は違ってきますよね。
なかなか開けようとしない孫の部屋のドアをノックして、先程まで子供帰りしていたツルが、それまでの人生(結婚、育児、夫の自殺未遂……)で経験したことを思い出しながら呼びかける一コマはグッときます。
閑話休題。
「800年の祈りの物語」、というコピーも秀逸ですし、国語の授業中ヒマすぎて国語便覧に並ぶ装束や王朝文学・戦記に思いを馳せていた学生時代を思い出します。
ああ、『平家物語』がアニメ化*1されたらどんなふうになるのかしらん。
ちなみに原作は古川 日出男氏訳の河出書房新社刊行『平家物語』です。
好きなポイントと主人公
とゆーわけでアニメ『平家物語』には期待しつつ、裏切られたらどーしよー、とゆー恐怖を抱き、ある程度話が進んだ時点で(小心者)視聴しました。
……まずオープニング曲と話がリンクするの、卑怯すぎません??
こんなの好きになりますよ!!少なくとも私は。
少し溜めて流れるサビ。ボルテージの上がる曲調はもちろんのこと、歌詞がよい。
“何回だって言うよ、世界は美しいよ 君がそれを諦めないからだよ”
”最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても、今だけはここにあるよ”
時代に翻弄される登場人物たち、現代人として結末を知っている悲哀な物語、しかし現代にいたるまでその物語が連綿と語り継がれている事実……。
過去がどうあれ、未来が暗くとも今、この時はたしかに存在している……。
このお話の主人公はオリジナルキャラクターの琵琶法師の娘*2、びわです。
元々の『平家物語』は作者不詳。12世紀末、後鳥羽院の治世に信濃前司行長なる僧侶が書いた、とも言われています*3。
なかでも「語り本」とよばれるものは琵琶法師による平曲*4、平家鎮魂の唄かつ源平合戦のオーラル・ヒストリーです。
この主人公、びわはオッドアイで右眼のみで対象を見ることで未来(さき)のことが分かります。
……!?!?!
未来のことが見える眼……というのは突拍子もない設定のように思えますが、つまりは現代に生きる源平合戦の行く末を知る私たちの視点に限りなく近いわけです。
現在五話まで視聴したのですが、「いつ死ぬかなー」と思っていた推しキャラの平重盛が四話で退場。
権勢を誇る平家(=清盛一門の伊勢平氏)とそれを疎んじる朝廷、間に挟まれて苦労する平家の次期棟梁たる重盛……。
まさしく中世の武家政権発足の転換期を象徴するのが、この時代。
時代(と実の父)に翻弄される重盛はただただ可哀想。中間管理職の悲哀といいますか、父清盛と血筋のいい弟の宗盛、朝廷を代表する後白河法皇の間に立たされるのはキツいですよね。胃が痛くなりそう。
史実と少し異なるところも『平家物語』にはあるのですが、スタンスとしては驕る平家代表が清盛、良心的平家代表が重盛となっています。
一方、父を平家に斬られながらも、重盛の下で暮らす主人公、びわ。重盛の子供らと遊びながら、琵琶を用いた語りシーンも交えて淡々と諸行無常の中世の世界観を現代に伝えてくれます。
また、「桜、蛍、紅葉、厳島神社で水に遊ぶ」……と場面で季節のうつろい、時代が徐々に変化していくさまが分かるのも、このアニメの魅力です。美しい絵巻物のよう。
もっとも、成長していく他の人物と異なり、びわの姿は変わりません。ここも気になるポイントですね。
徳子を通じて描かれる世界
藤原家が天皇の外戚として権勢をものにしたように、清盛も娘である徳子を入内させ、天皇の外戚として権力を握ろうとします。
劇中で、徳子は”びわ“が姉のように、母のように慕う聡明な女性として描かれています。
徳子の「お父様は私のことを駒としてしか見ていない」という台詞で漫画『応天の門』の藤原高子が基経に反発するシーンを思い出しました。
外戚政治に嫌気が差す女性側の反発といえますね。
また史実はどうあれ『平家物語』で入内した徳子と高倉天皇との間になかなか子ができず、徳子が子を授かっても天皇は側室の子を可愛がる、など二人のすれ違う場面が描かれます。
幼いびわに向かって「私は、許して、ゆるして、ゆるすの」とその苦しみを吐露する徳子。
高倉天皇には安息の場所が必要であることを理解している聡い徳子は、それ故に苦しみながらも、父清盛や後白河法皇も含めて許そうと自分に言い聞かせるように話します。苦しみで満ちているこの世界……でも美しい。
#平家物語 5話
— yam太郎 (@yamsan0) February 9, 2022
「ゆるして、ゆるして、ゆるすの」
それは、世界が苦しいだけでないと願う"祈り"と"涙"。
「何回だって言うよ、世界は美しいよ。君がそれを諦めないからだよ。」
一方、OPのサビに合わせ映るのは"笑顔"の徳子。
まさにこの5話への答であり、映像・脚本(歌詞)の対比が素晴らしい。
↓ pic.twitter.com/Di2TMlN3vV
『平家物語』では屋島の戦いの後、「波の下にも都はございますよ」と亡き清盛の妻である時子が語りかけ、幼帝安徳天皇は入水し、徳子もそれに続きます……。
作品中の人物では、びわ以外誰もその運命を知りません。
もう現代人たる私としては先の重盛がいつ死ぬのかハラハラしてましたし、後の安徳天皇が「あぶー」とか遊んでる時点で(死なないで……!)と思ってしまうわけです。
ちなみに徳子は入水するも救われ、後に出家しています。『平家物語』では終巻にて徳子を後白河法皇が訪ねる場面も。
徳子のみならず、陽気に今様を謡いつつも策を練る後白河法皇や、平家打倒を企てたため流刑され一人だけ許されなかった僧俊寛
初めての戦に震える重盛の息子・維盛
など様々な人物の思い、視点が交差する群像劇であることも、アニメ『平家物語』の推しポイントです。
鎮魂、そして語り継がれる物語
まだ五話までしか視聴していないにもかかわらず、大層な見出しをつけてしまいました*5。でもまあ、『平家物語』が現代まで残っていることは事実です。
『平家物語』には歴史を伝えるというだけでなく、滅びた平家鎮魂*6のため作られた側面があります。
そして山田氏はこのように述べる。
「国家にとって『怨霊』が重要な位置を占めていたのは中世までであり、近世以降は民衆の中で恐れられるにとどまった。そして、怨霊が神とされるのは、十世紀以降の菅原道真以降のことである。
「『慰霊』は怨親平等思想の拡大とともに鎌倉時代より盛んとなり、室町時代には施餓鬼と結びついて戦乱で亡くなった大量の人の供養が行われた。
以上の2点の指摘を考慮すれば、「平家物語」が成立したとされる時期は、ちょうどまさに「怨霊思想」と「怨親平等思想」のクロスする時代であることがわかる。
仮に「平家物語」の成立に慈円が関わったとして、慈円やその周囲の者の胸中にあったのは「怨霊思想」と「怨親平等思想」のどちらなのか。いやもしくは、その両方であったのだろうか。なかなか難しい問題である。
日本三大怨霊といえば、前述の無念の大宰府左遷となった菅公、首塚が未だに恐れられている平将門、武士の台頭を象徴する戦いである保元の乱に敗れた崇徳上皇*7ですね。
三大怨霊は神として祀られ、畏れられていました。と同時に「怨親平等思想」があったからこそ、敵方であっても語り継がれた側面もあります。
が、前掲のブログにもあるように時代が下るにつれ、怨霊が畏祀られることは少なくなりました。
中世人は寺院から呪詛を唱えられることを本気で恐れていたのですが、改名するという対抗策を編み出したりしています。
徐々に”まじない“を畏れる意識が希薄化したのですね。
アニメ『平家物語』でも強訴する山坊主の神輿に矢を射るな、というセリフがありました。結局命令むなしく神輿に矢が刺さるのですが、その後重盛邸は炎上しており、重盛は神輿に矢を射た罰かとつぶやいています。
この場面は中世人らしいなあ、なんて見ていました。日本史の教科書通りですが、坊さんが神輿を担いで京に降りてくるのは、神仏習合の象徴でニンマリ(全然微笑ましくない場面ですが)してしまいます。
さて、では「平家鎮魂(畏れ)」という意識が薄まっていく中でなぜ『平家物語』は時を越えて語り継がれたのでしょうか?
もちろん明確な解があるわけではないですが、私は時代を超越する普遍的な「我々の生きる世界の無常を思い知らされる」要素があったからではないかと思います。
語り継ぐ琵琶法師の存在も大きいです*8。
天災や戦災は必ず起き、とかく日常はもろく移ろいやすいもので、凡百の庶民から栄華を極める者まですべて等しく時代という大きな流れの前には無力である……。
現代でいうと、コロナウイルスは先進国も途上国も関係なく猛威を振るっています。
変異株の登場でワクチンのブースター接種に急ぐ先進国のエゴと、そもそも未接種の途上国、緊迫したウクライナ情勢と平和の祭典たる五輪……現代のニュースを見聞きするだけでも、先のことは分からないので人は翻弄される、と痛感します。
先のことについて、アニメ『平家物語』第二話「娑婆の栄華は夢のゆめ」では、びわと白拍子の祇王との会話で語られています。
「いつか、というのは、いい言葉だな。明日、明後日さきのことが楽しみになるの」(中略)「また今度、もいい言葉ね」
先のこと、を考えると未来に希望が持てる時もあります。
一方、徳子の入内で「壇ノ浦の結末」を思い出したびわは徳子を引き留めようとします。
「これからだって会えなくなるわけじゃない。また今度、ね」
と優しく諭す徳子。しかし、びわの目に映るのは激しい潮と、海に沈む徳子の姿でした。また今度、はないかもしれないのです。
ここでOP曲の歌詞が頭をよぎります。
“いつか巡ってまた会おうよ 最終回のその後も 誰かが君と生きた記憶を語り継ぐでしょう”
”いつか笑ってまた会おうよ 永遠なんてないとしたら この最悪な時代もきっと続かないでしょう“
アニメ『平家物語』の無常観と連綿と語り継がれる物語の重要さ、がこのシーンに詰まっているように思えました。
病の流行、悲惨な二度の世界大戦、関東・阪神・東日本を襲った大震災も多くの命を落とした人がいる中で、生きのびた人がそれを語り、現代に続いています。
多くの人々はまたいつか、を信じて今日も生きているのです。
まとまっていないまとめ
石田さんは立派に達した・・・・!決して・・・・・・・・決して無駄な人生なんかじゃないっ・・・・!(中略)石田さんの人生は負けじゃない