『天気の子』がめちゃくちゃいい。
先週公開されてから頭のなかをその想いがぐるぐるとしている。いい理由を言う。
1 映像と音楽のよさ
まずなんといっても映像が美しく、音楽がさらにそれを引き立てている。新海誠監督と野田洋次郎のやり取りについて知ると、二人の信頼関係の厚さに「そこまでか」とビビるくらいだし、ラストシーンのあの感動もそうしてできあがっているんだと納得する。ここでは特に2回目の鑑賞でボロ泣きしてしまった場面をピックアップしたい。
①帆高がはじめて陽菜の家を訪問するシーン
そもそも男子が女子の家を訪問することには普遍的なよさがある。緊張と期待で胸が熱くなる。
部屋に入ってからの展開と演出でもう完全にやられた。
窓際のビーズの飾りが色とりどりの光を反射して帆高の顔を照らす。天野家の穏やかで生活感のある空間。陽菜は帆高の持ってきたポテチとチキンラーメンを使って楽しげに料理をつくる。手際がいい。
エプロン姿の彼女は帆高の身の上話に「――そっか」と寄り添う。
豆苗とネギをハサミで軽快に切り刻む。「いただきます」と二人揃って手を合わせる。帆高にとって人生で一番美味しい食事が陽菜の料理で更新される。ああ、多幸感にあふれている!好きだ!
すぐ影響受けるやつ
②帆高が陽菜を草原から連れ出すシーン
「グランドエスケープ」がかかる。序盤は抑制的に、そしてクレッシェンド。
会えたことに喜ぶ二人。草原からジャンプする陽菜。落下しながら手と手がつながれるが、黒い雲の中で一度は離れてしまう。
「一緒に帰ろう」と叫ぶ帆高。しかし陽菜は自分が戻ったら世界から晴れが失われてしまうのでためらう。それに対して帆高は「陽菜はもう晴れ女なんかじゃない」「青空よりも、俺は陽菜がいい」と応える。雲を抜ける。ふたたび手はつながれる。
「――自分のために願って、陽菜」「・・・・・・うん!」。世界の形を変えて、二人は共に生きることを選択する。空は二人の清々しさのように澄み切っている。これ以上は望めない。。
映画よかった人は小説版も読んでくれ。。特に夏美が好きな人に。
2 ぼくの知っている東京
新宿は繁華街なのでゴミが散乱してけっこう汚い。池袋の北口はホテルがすごいある。そんなぼくの知っている東京を描いてくれてとても嬉しかった。生活の実感と風景が合っているのだ。また、東京のキラキラしていないところを描いてくれたことで、かえって空の美しさが際立っていた。
いろんな人の感想を眺めていて、「これ家の近くじゃん」という反応が目についた。実はぼくもそのうちの一人だ。新宿区で育ち、現在は豊島区で暮らしていて、さらに言うと勤務地がK&Aプランニングのすぐ近くにある。作品が自分の生活と場所でリンクしているのだ。これは盛り上がらざるを得ない。
印象に残っている場所を挙げるとキリがないのでこれも2つだけにとどめておく。
①田端駅南口
これ、山手線の駅なんだぜ(2017年10月撮影)
2年ほど前に山手線全駅下車をやった。文字通り山手線全29駅を下りるという謎の遊びだ。そのときぼくははじめて田端駅南口と出会った。
田端駅南口の特異さは、そのなにもなさだ。北口はちゃんと山手線をしているので、南口に出ると「え?東京?」と驚く。
「斎場反対」の主張が強くておもしろかった。
考えてみると、高台でかつなにもないということは空がよく見えるということだ。陽菜の家の舞台になるのはとても筋が通っている。ここは空に祈るにはうってつけの場所だったのだ。
劇中で家を揺らした新幹線
映画が上映された今は巡礼者でかなり賑わっているだろう。ぼくもまたぜひ再訪したいと思っている。できれば3月の雨の日に。
②目白駅周辺
左の「切手の博物館」は地味だけど見ごたえある。おすすめ。
もろに地元である。帆高がフェンスを超えて線路に登った舞台。目白駅を下りて高田馬場駅へ向かう線路と並行した道。奥には新宿のビル群が望める。
ぼくも池袋警察署に行ったことがあるし、この場所は何回も通っていた。なので夏美と帆高の警察とのバイクチェイスシーンは熱かった。
このシーンが素晴らしいのは、ご覧の通り実際に標高が下がっていて、雨が降って浸水したことに説得力があるからだ。目白駅と高田馬場の間には神田川が流れていて、低地が形成されている。山手線はそれを超えるためここから高架になるのだ。
線路を走るのはまごうことなき犯罪行為だが、地形的には帆高の選択は必然と言える。帆高、走れ――っ!
有刺鉄線が痛そう。
ちなみに大通りからこの道に至る階段もちゃんと実在している。改めて歩いてみると、「夏美さんアドレナリン出過ぎでは・・・」という高さなのでぜひ体感してみてほしい。
ほぼ直角に曲がってる・・・
3 描いてほしいことを描いてくれた
夏美さんとのバイクチェイスが爽快だったのは、「美女とバイクに乗って逃走」というぼくらの欲求に適ったイベントだったということもあるし、そもそもそれが現実には叶わないものだからだ。
監督はパンフレットのなかで次のように語っている。
映画は(あるいは広くエンターテイメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを――例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いを――語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。*1
ほんとうにその通りだ。『君の名は。』の評価を受けて、それでも今作を作り上げてくれたことには感謝しかない。
雑誌のインタビューで主人公像について次のように語っているが、監督自身がそれを体現しているのでは?と思う。
今回の作品を作るにあたって、まず全力で、慎重さとか遠慮とか忖度とか調和みたいなものを一切気にしない主人公を描いてみたいなと思ったんです。*2
これと同じ文脈で「青空よりも、俺は陽菜がいい」というセリフを捉えることができるし、水没した東京を描いた理由もまさにここにある。
同じ雑誌のインタビューでこう語っている。
たしかに、言ってみればこの作品は"ディストピアもの"でもあるかもしれないですよね。『(風の谷の)ナウシカ』であったり『AKIRA』であったり、おっしゃるとおり日本のアニメーションの中で連綿と紡がれてきたもの。でもいまそれを描こうとしたら、かつてとは違う形になるんだろうなとは思います。そういう流れの1本かもしれないですね。(中略)気候も含め、やっぱり現実の変化のほうが遥かに・・・・・・このところは特に楽観できないことばかりですから。かつてと今とでは、物語に求められる想像力が少し変わってはきているんでしょうね。*3
2016年に公開された前作『君の名は。』は同年の『シン・ゴジラ』とともに震災を正面から描いた作品だ。今回の『天気の子』はそこからさらに一歩進んで、確実にディストピア化する日本で生きるぼくたちの肯定の物語なのだと感じる。
話が少し飛ぶが、「雨はそれから三年間止むことなく、今も降り続けている」というナレーションでぼくはブラッドベリの短編『長雨』を想起した。
この物語では止まない雨のために登場人物が次々に発狂し死んでいく。もちろんただそれだけの話ではないし詳細はぜひ本を読んでみてほしいのだが、ぼくの中では「雨が止まない=人は狂っていく」というイメージがあった。
だから水没した東京が出てきて、いったいどうなってしまうんだろうと恐れていた。
しかし人々は案外ふつうに生活していた。沈んだ山手線の代わりに船を使っているし、花見の予定を考えている人さえいた。
このことにぼくは救いを感じた。たとえディストピアに見える世界でも人は生きていくことができる。「僕たちは、大丈夫だ」。本作はそんな希望を描いている。
+ 備忘録
◇『天気の子』と社会状況
監督が語っているように、本作はどうしようもなく2019年の社会の物語なのだ。
帆高も陽菜も貧しいというのは、実は『君の名は。』と大きく違う要素かもしれませんね。社会自体があの頃とは違っていて、日本は明確に貧しくなってきている。特に若い子にはお金が回らなくなっていて、それが当たり前になってきています。(中略)『君の名は。』はパンケーキに喜ぶ話でもありましたが、『天気の子』はジャンクフードに喜ぶ話なんですよね。*4
バニラトラックは象徴的
『天気の子』は帆高と社会全体の対立の物語とも言える
◇過去作品の影響と『天気の子』の位置づけ
作品を語るって楽しい。
他作品との比較。分析すごいな
ゼロ年代エロゲ集団幻視は笑いが止まらなかった
(イソノ)